INTERVIEW インタビュー

前田為康

堀越信司

高松佑圭

Maeda/Horikoshi/Takamatsu

パラスポーツの未来のために

選手の能力を引き出すコンディショニング

2021.11.10

向かって左より、堀越信司(ほりこし ただし) パラ陸上競技選手、 前田為康(まえだ ためやす) パラ陸上競技トレーナー、 高松佑圭(たかまつ ゆか) パラ陸上競技選手

PHOTO:戸田麻子

パラ陸上競技との出会い

インタビューに答える、「前田為康」トレーナー
まず、前田先生に質問ですが、トレーナーとしてパラ陸上競技に携わるようになった経緯をお聞かせください。

前田パラ陸上競技のサポートをするようになったのは、2010年に中国の広州で開催された第1回アジアパラ競技大会からです。当時、大阪府スキー連盟からの派遣で、大阪市障がい者スキー教室の指導員をしていたのですが、その活動をきっかけに日本パラ陸上競技連盟の吉村龍彦事務局長からお声がけいただき、トレーナーとして参加することとなりました。
その後、強化委員会トレーナー部会へ入り、現在までパラ陸上競技のサポートをさせていただいています。

パラスポーツとの出会いはスキーだったのですね。

前田はい。学生時代から競技スキーをやっていたので、基礎スキー指導員の資格を取って、大阪府スキー連盟の一員としていろいろとお手伝いなどをしていました。そのときに障がい者の方向けのスキー教室があって、皆さん楽しくスキーをされているということを聞き、ぜひ参加したいなと思ったんです。滑れなかった方が滑れるようになって喜んでいる姿を見ると、私も自分のことのように嬉しくて、本当に楽しく充実した時間を過ごしました。

そのときもトレーナー的な活動をされていたのですか?

前田指導員を務めるようになって10年目くらいから、自発的にベッドを持ち込んで夜にケアをするようになりました。やっぱりトレーナー業というか、接骨業というか、ケガの処置がものすごく大好きなんですよ(笑)。受講生からもだいぶ喜ばれましたし、当時は大阪府警ラグビー部や大阪桐蔭高校の野球部のトレーナーなどもしていましたので、そうした選手たちからの喜びの声なども聞いて、ますます治療をすることが好きになっていきました。

インタビューに答える、トレーナー「堀越信司」選手
堀越選手が陸上競技を志したきっかけをお聞かせください。

堀越陸上を始めたのは中学校に入ってからです。小学生の頃は両親の勧めもあって水泳をやっていたんですが、親元を離れて東京の筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に進学することなったので、今度は自分の意思で別のスポーツをやってみたいと思ったのがきっかけでした。

ただ、運動部が水泳、陸上、サウンドテーブルテニス(視覚障がい者のための卓球)の3つしかなかったんです。どうしようかと思ったんですが、小学生の頃にモーリス・グリーン(シドニーオリンピック・男子100m金メダリスト)がめちゃくちゃ流行っていたり、ちょうど有森裕子さんとか高橋尚子さんがすごく活躍されていた時期だったというのもあって、なんとなく陸上部に入りました(笑)。

いつ頃から世界を目指すようになったのでしょうか?

堀越中学3年間は、とにかく記録が伸びることが楽しくて続けていました。高校に入り、日本パラ陸上競技選手権大会やジャパンパラ競技大会に出るようになっても、自分が世界で競える選手になれるとは全く思っていませんでした。

大学に進学しても、普通に一般学生をやりながら、無理やり時間をつくって練習を続けていたんですが、大学1年の2007年12月に東海大記録会で1500mを走ったら結構良い記録が出たんです。当時の自己ベストを8秒くらい更新して。1500mで8秒って大きいじゃないですか。それで、ひょっとすると、ひと冬頑張ったら翌年の夏の大会に出られるんじゃないかと思ったんです。

結果的に大会には出場できたんですが、予選を通過することはできませんでした。それが本当に悔しくて。緊張している間に終わってしまって、自分の走りもさせてもらえませんでしたので。決勝はテレビで観ていたんですけど、そのときに「この選手たちと戦えるようになりたい」と思ったのが世界を目指すようになったきっかけです。

インタビューに答える、トレーナー「高松佑圭」選手
高松選手はいかがでしょうか?

高松私はちょうど部活に入っていなかった時期に、母から「走ってみれば?」と言われて、中学2年生から陸上を始めました。最初はきつかったんですけど、タイムが伸びるようになると楽しくなって続けていました。
高校は陸上部がなかったので3年間バスケットボールをやっていたんですが、社会人になって陸上を再開しました。

中学時代から短距離が専門だったのですか?

高松はい、ずっと短距離です。400m以上の距離は走らないです(笑)。

(笑)。では、100mと400mではどちらがお好きですか?

高松うーん、どちらかと言ったら400mですけど、どっちも好きじゃないです。練習がしんどいんで(笑)。

一同(笑)。

ベストコンディションでスタートラインに立つために

インタビューに答える、トレーナー「堀越信司」選手
逆に堀越選手は長距離が全く苦ではないという話を耳にしたことがありますが、練習でも長い距離を走るのですか?

堀越そうですね。もちろん限度はありますけど、50キロ走くらいまではやります。

高松50キロ! それもう練習じゃないじゃないですか(笑)。

堀越練習…かな(笑)。その分ジョグがゆっくりなんですよ。メリハリをつけるというか、練習では故障につながらないように、うまく質と量をコントロールしていくことが重要なので。とはいえ、そればかりだと強くならないですから、ある程度は限界を突破しなければいけない。いつもそのギリギリの線を攻めていくんです。

そうすると当然、身体にガタがくるので、普段からコンディショニングには気を遣っています。前田先生と初めてお会いしたときはまだ大学生でしたので、1回鍼を打ってもらえば次の日には元気になっていましたけど、今はもうそうはいかないので(笑)。

自分の身体の変化であるとか、こういう練習をやったら、どういうところに疲労が溜まりやすいのかとか。そうなったときには、どこをどういうふうにケアしていけば調子が元に戻っていくのかとか。そういうことをしっかり考えながら競技をするようにしています。

インタビューに答える、「前田為康」トレーナー
前田先生はアスリートの治療をするにあたって、どのような点に気をつけていますか?

前田まずは、いかに早く選手の状態を見極めるかです。例えば、一口に脚の切断と言っても、膝の上なのか下なのかで使う筋肉や関節も違ってきます。視覚障がいでも視力や視野などは選手によってさまざまです。
こうした違いが競技結果に影響しないように、パラスポーツでは同じ種目でも細かくクラス分けがされています。ですから、できるだけ早く選手の特徴を理解することが重要になってくるんです。

その上で、選手が何を求めているのかを察し、いかに早くその要望に応えるか。選手それぞれに目標がありますので、その目標に対してどこまで能力を引き出せるか、いかに残されている能力・機能を引き出すかというのは、パラスポーツのトレーナーの一番大きな役割だと思っています。

見極めて引き出すといっても、一朝一夕にできることではないですよね。

前田そうですね。私の場合は、障がい者スキー教室でいろいろな障がいを持つ方をみてきた経験が大きいと思います。おかげでパラ陸上のトレーナーになったときも、全く違和感なく入れました。
車いすの選手だったら上半身にかなりの疲労が起きるとか、下半身の麻痺レベルの違いで、どの程度下半身に力を入れられるか、どういうパフォーマンスができるかとか、そうした見る目は養われましたね。

低周波・超音波コンビネーション刺激装置で「高松佑圭」選手を施術する「前田為康」トレーナー
治療には物理療法機器も使われていますが、きっかけは何だったのでしょうか?

前田ここの前田針灸接骨院は私で三代目になるのですが、私が幼い頃は自宅と治療院が一緒でしたから、低周波やマイクロ波などの治療器は常に身近にありました。私自身もスキーでいろいろとケガをしましたので、学生時代にはお世話になったこともあります。
その後、治療家になるに当たって勤めた整形外科や接骨院も外傷に強いところでしたので、そうしたところでも物理療法について学びました。

私は治療の時間を楽しく過ごしてもらいつつ、モチベーションアップを図り、ベストコンディションでスタートラインに立ってもらうことを一番の目標にしています。そのためにはメンタル面でのサポートも欠かせませんので、選手の悩みを聞いてアドバイスをすることもあります。
物理療法を使うメリットとして、筋肉や靱帯、腱などの組織にアプローチして痛みを和らげ、早期改善につなげるという点はもちろんあるんですが、「この機械を使ってるから大丈夫」という精神的なお守りとでも言うんですかね、そうしたメンタル的な部分での作用も大きいと思っています。

高松選手と堀越選手がコンディショニングで気をつけているのはどんなことですか?

高松練習をやり過ぎないことと、睡眠と栄養に気をつけることです。あとは、こちらの接骨院で前田先生に定期的にケアをしていただいたり、練習でふくらはぎが張ったときはマイクロカレントでセルフケアもしています。

ポータブルマイクロカレント機器を使用する「堀越信司」選手

堀越自分もやっぱり練習をやり過ぎないことに尽きます。ただ、それでもケガをしてしまうことはあるので、そのときは前田先生を始め、いろいろな方のお力を借りて、なるべく早くケガを治して、痛みなく練習できる状態に持って行くことに集中しています。

自分は超音波や電気刺激を使っているんですけど、身体の状態に合った使い方をすることを意識しています。機械は決して万能ではないので、どう使えばいいのかをしっかり考えたり、実際に現場で使われている方にアドバイスを頂いて、それを自分の身体で試してみたりしながら活用しています。

RUCOE RUNを手にインタビューに答える、「高松佑圭」選手
高松選手はコンディショニングにRUCOE RUNをお使いとのことですが、どのように活用されているのですか?

高松寝る前によく使います。好きなモードはクールです。次の日に備えて、ふくらはぎに貼って使っています。
クールはどのくらいの時間使えばいいんですか?

前田筋肉が気持ちよく動くくらいの強さで10分。10分でタイマーが切れるので、足りないなと思ったら2〜3セットやってもいいですよ。

堀越自分は使ってないんですけど、使った選手やガイドランナーからはすごく刺激が入ると聞いているので、ウォーミングアップ前に使えるんじゃないかと思っています。冬の寒い時期に軽く刺激を入れておいて、それからアップに行ったら故障予防にもつながるんじゃないかなとか。

高松堀越さん使ってみたらいいじゃないですか。

堀越じゃあ、前田先生お願いします(笑)。

前田練習後だから、ふくらはぎに貼ってクールモードにしましょうか。ボリュームは自分で調節してみてください。

RUCOE RUNの使い方を指導する「前田為康」トレーナーと、筋電気刺激装置を使用する「堀越信司」選手

堀越ああ、貼っている場所によるのかもしれないですけど、ずっしりきますね。少し広がりがあるというか。ピリピリ感がないのがいいですね。これがクールですか? 他のモードも試してみていいですか? ウェイクはウォーミングアップですよね。アクトは何ですか?

前田アクトは筋肉に刺激を入れて、その部分を意識しやすくするイメージですね。ウェイクとアクトは連続でやってもいいと思いますよ。

高松試合前とか。

そうですね。試合前とか、最終コールの前に使う方もいますよ。

前田脳への刺激というか、教育というか。学習ですよね。

堀越刺激を入れると覚えますもんね。
ああ、なるほど。おー、そういうことか。なんか分かったぞこれ(笑)。

2021シーズンを振り返って

インタビューに答える、「堀越信司」選手
2021年を振り返って、苦労したことなどがあればお聞かせください。

堀越前年12月の防府読売マラソンで自己ベストを大幅に更新し、アジア記録で優勝できたので、万全の状態で2021年に臨めそうだと思っていました。実際、2月のハーフマラソンでも、4月の10キロトライアルでも自己ベストを更新できました。自分としてもだいぶ調子が上がってきていると感じていたんですが、5月に脚を痛めてしまって…。5月は全く走れない状態でした。
6月から痛みを抱えながらちょっとずつ走り出して、7月になんとか痛みなく走れるようになったんですが、夏の大会に向けて3〜4カ月かけてしっかり土台作りをしようと考えていたので、正直「うーん…」っていう感じでした(苦笑)。

どのような治療をされたのですか?

堀越合宿中トレーナーさんにいろいろと指導をしてもらいました。あとは対症療法ですけど、超音波を当てたら痛みが和らいで走れるような状態だったので、しっかり超音波を当ててから練習に行って、終わってからもちょっと当ててという感じで治療をしていました。
6月から大会が終わるまでずっと缶詰だったので、機械は自分で持ち込んでいたんですけど本当に救われました。だから今回は機械の力も借りつつ獲れたメダルなのかなと思っています。

インタビューに答える、「高松佑圭」選手
高松選手はリレーと個人種目でフル活躍でしたね。

高松ユニバーサルリレーの予選はアメリカ、フランスと同じ組だったので、フランスには負けたくないと思って必死にタッチしました。すごく緊張しましたけど、チームベストが出て決勝に行くことができたので良かったです。
私は3走なので4走の車いすの鈴木朋樹選手に屈んでタッチしなければいけないんですけど、決勝は1レーンだったので、車いすが見えなくてタッチするのがすごく怖かったです。

結果は見事に3位でしたが、ゴールをされてどんな気持ちでしたか?

高松とにかく疲れました(笑)。400mの予選とリレーの予選・決勝で1日3本も走りましたから。
私も大会の直前に脚を痛めてしまって、トレーナーさんに鍼とかマッサージとか超音波とか、フルコースでやってもらってなんとか走れました。

前田肉離れではなかったんですけど心配しました。テーピング巻いて、リンパマッサージをしながらストレッチかけて。不安がらせないように「大丈夫だよ! 大丈夫、大丈夫!」って言いながら(笑)。
そうしたら。

高松3本も走れちゃいました(笑)。

前田脚に不安のある中での結果ですから、私も嬉しかったですね。
高松選手はチームの雰囲気を明るくしてくれるんですよ。試合の直前でもすーっと寄ってきて、たわいない話をしてくれたり。逆に私の方がほっとする時間をもらったりしていたので本当に嬉しかった。

堀越選手のレースは40キロ地点あたりで観ていたんですけど、今まで見たことのない表情で、絶対勝ち取るんだというのが伝わってきて、思わず「よし、行けーっ!」って叫んでいました。
もう10年以上の付き合いで良いときも悪いときも知っていますから、ゴールした瞬間は感極まって涙が出ましたね。

パラスポーツの発展に向けて

では最後に皆さんの今後の目標や夢についてお聞かせください。

高松次の世界選手権、それから3年後を見据えて、まずは400mと200mの自己ベストを更新したいです。

堀越来年から選考に関係するレースも入ってくるので、3年間しっかり頑張って、もう一度表彰台に立つのが目標です。そのためにもマラソンで2時間20分を切って世界記録を樹立したいですね。そうなれば胸を張って「自分は速い」と言えますし、パラスポーツに興味を持っていただくきっかけにもなると思うんです。
障がいに対しては、どうしてもネガティブなイメージがありますけど、多くの人に自分の走る姿を見ていただくことで、それを少しでもポジティブなものに変えていけたら嬉しいです。

その上で若い選手のお手本になれるような、記録だけではなく、人間としても尊敬してもらえるような選手に成長していきたいと思います。
ここに至るまで本当に多くの方にお世話になりましたので、恩返しの思いを持って走りたいです。

前田スポーツトレーナーとなってもう30年になりますが、パラスポーツからは非常に多くのことを学びました。障がいを持たれている方や難病の患者様へそうした経験を伝え、残っている力で何ができるかを共に考え、生きがいを持って人生を歩んでいただく、そんな治療家になりたいと思います。

堀越選手が「恩返し」という話をされましたけど、私も勇気と感動を与えてくれたパラスポーツ、パラの選手たちへの恩返しとして、選手の皆さんが社会貢献を果たすための支えになれればと考えています。

3ショット写真。向かって左より堀越信司選手・前田為康トレーナー・高松佑圭選手
パラ陸上競技「前田為康」トレーナー
前田 為康 (まえだ・ためやす)

前田中国医学研究院グループ 代表。前田針灸接骨院・銀座針灸院 院長。日本パラ陸上競技連盟強化委員トレーナー部会 所属。
大学卒業後、東京衛生学園専門学校鍼灸科・東京医療専門学校柔道整復科を修了。大阪大学大学院医学系研究科・神経機能形態学に在籍し脳科学の研究に従事。
全日本スキー連盟公認指導員・ドクターパトロールの資格を有し、その傍ら大阪市障がい者スキー教室では20年間にわたり、さまざまな障がい者にスキー指導をした経歴を持つ。
現在は子供から大人までの障がい者・難病患者に対し、鍼施術と運動療法を組み合わせた研究を重ねている。

経歴: 三洋電機バトミントン部(1996〜2002)/ 大阪桐蔭高校野球部(1996〜2012)/社会人ラグビー 近鉄ライナーズ(1998〜2006)/ 大阪府警ラグビー部(2007〜2017)

ロンドンパラリンピック(2012)・リオデジャネイロパラリンピック(2016)・東京2020パラリンピック(2021)パラ陸上競技日本代表選手団にトレーナーとして帯同/他多数

パラ陸上競技「堀越 信司」選手
堀越 信司 (ほりこし・ただし)

1989年7月19日生まれ。長野県出身。NTT西日本 陸上競技部 所属。
中学進学を機に陸上を始める。2008年、5000m・1500mの日本代表として北京パラリンピックに初出場。2010年の広州アジアパラ競技大会では5000mで銀メダル、2012年のロンドンパラリンピックは5000mで5位入賞、2014年のインチョンアジアパラ競技大会では5000mと1500mでそれぞれ金メダルを獲得するなど活躍を続ける。その後、マラソンに軸足を移し、リオデジャネイロパラリンピックで4位入賞。4大会連続出場となる東京2020パラリンピックでは悲願の銅メダルを獲得。

パラ陸上競技「高松 佑圭」選手
高松 佑圭 (たかまつ・ゆか)

1993年5月31日生まれ。大阪府出身。株式会社ローソン 所属。
中学2年生のときに母の勧めで陸上競技を始める。T38クラスの短距離3種目(100m、200m、400m)で日本記録を持つ屈指のスプリンター。2016年のリオデジャネイロパラリンピックには、100mと400mの2種目に出場、400mで7位に入る。翌年の世界パラ陸上競技選手権大会ロンドン2017では400mで銀メダルを獲得。東京2020パラリンピックでは短距離3種目に加え、ユニバーサルリレーにも出場し、第3走者として日本の銅メダル獲得に大きく貢献。